私はドイツで暮らして25年になる。それでも私のドイツ語では、母国語話者には到底敵わない。語彙の豊富さも、微妙なニュアンスも、瞬発力も違う。彼らの会話の中に入れば、自分の言葉はどこかぎこちなく感じられるし、ユーモアや皮肉も一拍遅れてしまう。もし「どちらが上手に話せるか」という勝負をしたら、最初から結果は見えている。
以前の私は、これをコンプレックスにしていた。ギャラリストが言葉を巧みに操れないなんて情けない、と思っていた。もちろん普通に話すことはできる。語学は習うより慣れろで、日々使っていればそれなりに使いこなせるようにもなる。それでも、どこかで自分を卑下している自分がいたことは否めない。
ある時、気づいたことがある。私が落ち込んでいたのは、「ドイツ語が下手だから」ではなかった。「ネイティブに近いかどうか」という物差しで、自分を測っていたからだった。その物差しの上では、私は永遠に負け続ける。生まれてから積み重ねてきた年月の差は、どれだけ努力しても縮まらない。だから当然、いつまでも劣等感が消えなかった。
しかし、実際に私と話している相手は、本当にその物差しで私を見ているのだろうか。取引先も、アーティストも、友人も、私の助詞の使い方や発音のなめらかさを採点しているわけではない。彼らが見ているのは、私が何を考え、何を伝えようとしているかだ。ネイティブらしさという物差しは、そもそも私が自分自身に、勝手に当てはめていたものにすぎなかった。それに気づいてから、不思議と肩の力が抜けた。弱点が消えたわけではない。ただ、その弱点を測っていた物差し自体が、間違っていたことに気づいただけだ。
私は、これは語学だけの話ではないと思っている。
アーティストから「SNSが苦手です」「言葉で作品を説明できません」という相談を受けることがある。話を聞いていくと、その苦しさの多くは、SNSでの発信力という物差しで自分を測っていることから来ている。毎日投稿し、動画を作り、多くのフォロワーを集める人と比べて、自分にはそれができない。だから劣っている、と。
しかし、収集家やキュレーター、実際に作品の前に立つ人たちは、本当に投稿の頻度や巧みさで作家を評価しているのだろうか。彼らが見ているのは、その作家が何を作り、何を考え、どんな時間をその制作に費やしているかだ。発信力という物差しは、SNSというプラットフォームが与えてくれたものであって、必ずしも作品を見る人が使っている物差しではない。もちろん、その物差しで測られる場面がまったくないわけではない。発信力が評価につながる文脈も確かに存在する。だからこそ、大事なのは「その物差しを完全に無視していい」という話ではなく、「今、自分がどの物差しで測られている場に立っているのか」を見極めることだ。
寡黙な人には、寡黙な人の伝え方がある。饒舌な言葉は多くの人に届くかもしれない。しかし、少ない言葉だからこそ生まれる密度もある。一言に何日も考え抜いた文章には、量産された言葉にはない重みが宿ることもある。それは、発信力という物差しの上では測れない価値だ。
結局のところ、大切なのは「何が苦手か」を数えることではなく、「自分が今、誰の物差しで測られようとしているか」を見抜くことなのだと思う。母国語話者の物差しでドイツ語を測れば、私は一生負け続ける。インフルエンサーの物差しでアーティストの発信を測れば、多くの寡黙な作家は劣って見える。しかし、その物差し自体が、必ずしも自分の勝負すべき場所とは限らない。
弱点は消すものではない。まず疑うべきは弱点そのものではなく、それを測っている物差しの方だ。どの物差しで戦うかを選び直すこと。それこそが、自分だけの戦い方を見つけるための、一番大切な手がかりなのかもしれない。

