人はなぜ悪いニュースに救われるのか
大手ギャラリー縮小のニュースを見て、不安を覚えた作家は多かったと思う。アート市場はどこへ向かうのか。この先さらに厳しくなるのか。制作を続けていけるのか。そんな問いが頭をよぎった人も少なくないだろう。
けれどそのニュースを見て少し安心した人もいたのではないかと私は思っている。
もちろん、それは誰かの不幸を喜ぶという話ではない。もっと複雑で、もっと人間的な感情だ。あれほどの歴史と資本を持ち、世界中に顧客を抱える巨大なギャラリーでさえ苦戦している。その事実は、自分が抱えている不安や失敗を少しだけ軽くしてくれる。展示に人が来なかったことも、作品が売れなかったことも、期待した反応が得られなかったことも、自分だけの問題ではなかったのかもしれないと思えるからだ。
私はその気持ちを責めることができない。むしろ自然な反応だと思う。人は、自分の力不足だけが原因ではなかったと知ったとき、少し救われる。どれほど努力しても報われない経験をしたことのある人なら、その感覚はよくわかるはずだ。
説明が手に入ると人は落ち着く
考えてみれば不思議なことである。市場が悪い。景気が悪い。戦争が続いている。コレクターが慎重になっている。そうした説明を聞いたところで、現実は何も変わらない。売れなかった作品が売れるようになるわけではないし、失った機会が戻ってくるわけでもない。それなのに人は安心する。
なぜだろう。
私は、人が求めているのは必ずしも成功ではないのではないかと思う。成功できなかった理由なのではないかと思うのだ。
なぜ売れなかったのか。なぜ評価されなかったのか。なぜ機会が巡ってこなかったのか。その答えが見つかると、人は思いのほか落ち着く。状況は全く改善していないにもかかわらず、気持ちだけは少し軽くなる。
人間は現実だけを生きているわけではない。現実に意味を与えながら生きている。だから理由が見つかると、たとえ問題が解決していなくても、どこかで区切りがついたような気持ちになる。苦しかった出来事が物語として整理されるからだ。
しかし、それは同時に危うさも含んでいるようにも思う。
私たちは前進ではなく納得を求めているのかもしれない
説明は心を落ち着かせる。しかし心を落ち着かせることと、前へ進むことは別の話である。
私は時々、アートの世界に限らず、多くの人が前進するためではなく納得するために情報を集めているように見えることがある。市場が悪いという記事を読み、景気後退の分析を読み、業界の不振を示す数字を眺める。それらは確かに現実を知るために必要なことだ。だが気がつくと、その情報は未来を考える材料ではなく、今の自分を説明する材料になっていることがある。
もちろん現実を無視しろと言いたいのではない。市場が厳しいのは事実だろう。私自身、その影響を日々感じている。しかし本当に難しいのは、その事実を受け止めたあとである。
景気が悪く、市場がうまく機能していないとすると、その中で自分は何をするのか。展示に人が来ないとすると、どうやって出会いを見つけるのか。
本来なら考えるべきことはそこから始まる。ところが説明があまりにも説得力を持っていると、人はそこで思考を終えてしまう。理由が見つかったことで、問題に決着がついたような気持ちになるからだ。
ニュースの向こう側にあるもの
私は最近、ニュースそのものより、そのニュースを読んだ人の反応の方が気になるようになった。
同じ記事を読んでいるはずなのに、不安を感じる人もいれば安心する人もいる。諦める人もいれば、新しい方法を考え始める人もいる。その違いは記事の内容ではなく、その人が今どこに立っているかの違いなのだろう。
だからニュースは鏡に似ている。
そこに映っているのは市場だけではない。自分自身である。
私は大手ギャラリーの苦戦というニュースを読みながら、アート界の未来より先に、自分の内側を見ていたのかもしれない。市場が悪いという事実を確認したかったのか。それとも、自分の不安を正当化したかったのか。その境界は案外曖昧である。
結局のところ、市場が良い時代にも苦戦する人はいたし、市場が悪い時代にも道を切り開く人はいた。その現実を単純な努力論で片付けるつもりはない。運もある。環境もある。偶然もある。だから成功も失敗も一つの理由では説明できない。
それでも最近よく考えることがある。
私たちは本当に次の一手を探しているのだろうか。それとも、自分が動けなかった理由を探しているのだろうか。
大手ギャラリーの苦戦というニュースは、アート界について語っているようでいて、実はその問いを私たちに突きつけているような気がしている。

