私は友人数名とラオスに出かけたことがある。旅の始まりから終わりまで、ラオスの青年がどこへ行くにも車で連れて行ってくれた。観光地から次の観光地へ、レストランから、マッサージ店まで。ホテルから買い物まで、どこにでも私たちに付き添い、無駄な時間も危険な思いもなく完璧にオーガナイズしてくれた。
とても快適な旅だった。
しかし今思い出すのは、観光したことでも、食べたものでも、お土産でもない。彼のことなのだ。
彼は私たちに一切の苦痛や苦労をさせないために常に私たちの影となってそこにいた。レストランで私たちが美味しい食事をしている間、彼は暑い外で待っていた。私たちが買い物をしている間、彼はじっと車の中で待機をしていた。長時間の運転にも、嫌な顔ひとつしなかった。
ただ、私はどこで何を食べたのか。どのホテルに泊まったのか。どの街をどんな順番で回ったのか、よくは思い出せない。写真を見れば断片的に蘇ってくることもあるが、自分の記憶として残っているものは、彼が担ってくれたその苦労のことだけなのである。
皮肉なことに、人の記憶を強く残すのは、必ずしも快適な時間ではない。定休日だと知らずに店の前まで行ってしまい、仕方なく別の店を探したこと。見知らぬ通りに入り込んでしまい、ホテルに戻れなくなって焦ったこと。偶然見つけた小さな店に入って、店主と片言の言葉で話したこと。予定にはなかった場所で、思いがけず美しいものを見つけたこと。そういう出来事は、お膳立てされた旅程には書かれていない。
だからなのだと思う。私の中に残っているのは、ラオスの旅そのものよりも、私たちの苦労をすべて背負い込んでくれた、あの青年のことなのだ。
もちろん、ラオスを自分たちだけで巡る旅はハードルが高い。彼がいなければ、私たちができたことは非常に少なかったはずだ。しかし、自分で問題を抱え、解決しなかった旅は、いとも簡単に記憶が薄れていくのは事実である。
そして、これは海外での展示にも少し似ていると思う。
最近は、海外展示のためのさまざまなパッケージがある。費用を払えば、会場が用意される。作品を送れば展示してもらえる。翻訳もしてくれる。場合によっては、プロフィールや作品紹介まで整えてくれる。作家は、ほとんど手ぶらに近い状態で現地に行くことができる。
これは、とても便利なことだ。
海外で展示をするために必要な面倒な作業を代わりに引き受けてもらえるのだから、忙しい作家にとっては魅力的だろう。
ただ、そこで私は一つのことを考えてしまう。その展示を終えたあと、いったい何が残るのだろう。その街で誰と出会ったのか。なぜ、その街で展示する必要があったのか。会場で作品を見た人と、何を話したのか。その会話から、次に何が生まれたのか。現地のギャラリストや作家と知り合い、その後も関係が続いたのか。展示を見たコレクターから、後日連絡が来たのか。あるいは、思いがけない場所で作品を見た誰かから声をかけられたのか。
そうしたことが何もなければ、海外で展示したという事実だけが残る。そして、その事実は思っているほどキャリアを動かさない。
だから私は、すべてを用意してもらった海外展示を見ると、あのラオス旅行を思い出すのだ。お金を払えば、面倒なことはなくなる。けれど、面倒なことをなくすことと、価値のある経験を得ることは、同じではない。
もしかすると私たちは、とても高いお金を払って、失敗する機会まで人に買い取ってもらっているようにも感じる。そして失敗する機会を失った時、同時に自分だけの記憶をつくる機会も失っているのではないだろうか。
予定通りに進む展示から、予定通りの「海外展示歴」は生まれる。けれど、予定外の出会いや出来事からは、ときどき予定外のキャリアが生まれる。
私は、後者のほうがずっと面白いと思っている。

