春から夏にかけて、ここミュンヘンでは地区を巡るように、毎週どこかの庭先で蚤の市が開かれる。各家庭の不用品を並べて売るだけの、ごく素朴なイベントだ。先日、私たちの住む地域でもこれが開催され、私は家の前に古いレコードや食器を並べて座っていた。
値段はあってないようなもので、値切りも立派な作法のうちだ。「三ユーロにまけてよ」と笑い合う時間には、ギャラリーで作品の前に立って言葉を選んでいる時間とはまったく違う、穏やかで心地良いひとときだ。私たちの人生の重みをほんのいっとき背負った器や、青春が染み込んだ古いレコードを、値札もつけずに手渡していく。そこにあるのはコンセプトとか評価とかではなく、ただの受け渡しだ。
そこへ、一人の女性が近づいてきて言った。
「あなた、ギャラリーをやっている方ですよね?」
正直、驚いた。庭先で雑貨を並べて店番をしている私と、ギャラリーの空間に立つ私は、別人のようなものだと自分では思っていたから。
仕事の顔になると、言葉の選び方も、間の取り方も、少しキリリと引き締まる。それは意識的に作っている態度というより、長年の仕事の中で体に染み付いた反射のようなものだ。だからこそ、休日の庭先ではその反射は自動的に解除されていて、素の私に見えているはずだと、勝手に思い込んでいた。
けれど彼女にとって、私はどこにいても「あのギャラリーの人」でしかなかった。この事実は結構強力なパンチだった。私の中でギャラリーという仕事は、もう役割や職業という次元を超えて、自分自身と同化してしまっているのかもしれない。オンとオフを切り替えているつもりで、実際には切り替わっていない。休日に庭先で雑貨を並べていても、ギャラリーで作品を前にしていても、結局は同じ顔をしている。今日、そう教えてもらった。
これは、必ずしも喜ばしいことばかりではないと思う。仕事と自分が同化するというのは、裏を返せば、仕事から降りる場所がどこにもないということでもある。庭先で古いレコードを売っている時間さえ、誰かの目には「ギャラリーの延長」として映る。プライベートという領域が、徐々に侵食されていく感覚が、たしかにある。
それでも、この日の出来事を不快には感じなかった。むしろ、この街に自分の居場所が、思っていたより深く根を張っていることを、意外な形で確認できた気がしている。見ず知らずの人の頭の中に、私がとあるギャラリーで働く人として焼きついている、母国を離れ、親類縁者もいないこの場で、誰かの記憶の中に棲みついている。
蚤の市の掘り出し物を探しに来た人たちの中に、思いがけず自分自身を見つけてもらった一日だった。

